前編 『Return-回帰-』

 夏の夜。
 高校生の幹人は目の前に与えられた課題を相手に苦戦していた。
 今年の冬、大学を受験しなくてはならない。
 そう思って春から予備校に通いだしたが、基礎が完成していなかったために一年ではかなり難しいという状況を、改めて思い知っていた。
(……うーん、分からん)
 広げられた数学のテキスト。
 そこには積分を難しくした問題がかなり多く存在し、幹人はそれの対処に追われていた。
 時刻は既に、日付が変わろうとしている。
 そろそろ終わりにしようかと思ったときに、コンコンと控えめのノックが聞こえてきた。
「幹人、起きている…?」
「起きているよ」
 そう言って扉を開けると、そこには姉の姿があった。
 両手には缶ビールを携帯し、いかにもこれから飲み会という感じだ。
 姉の言い出すことは分かっていたが、幹人はあえて尋ねた。
「なに?」
「飲もうよ、幹人」
「駄目。俺、明日から夏期講習だし、朝早いから」
「夏期講習なの? 勉強、分かっている?」
「う……微妙…」
 とは言うが、実際には全く分かっていない。
 それに対して姉はかなりの実力者で、こと勉強については全く事欠かなかったという。
 現役で有名私立大学の医学部に合格し、美人で大人しい性格で、と誰もが高嶺の花に思う存在の姉が、幹人にとっては疎ましくもあり、また敬愛の対象でもあった。
 自分に無いものを全て持っている姉。
 というか、自分が持つべき才能まで全て姉に奪われてしまったのではないかというくらい、姉は完全だった。
「私が教えてあげようか?」
「………」
 それに対して幹人は渋った。
 確かに姉なら予備校の先生と同じくらいの指導要領は得ているだろう。
 そして自分の分からないところを的確に指摘して、分かるようにもしてくれるはずだ。
 だが、あまりにパーフェクトな姉の存在に、自分が落ち込むんじゃないかと思うのだ。
「ほらほら。とにかく幹人も受験を乗り切らなきゃなんだし、そのためには勉強しないと、ね?」
 姉の言うことは正論だった。
 ならば、それをいくら否定したってそれは幹人のわがままでしかない。
 そんな無様な姿を晒しては、ますます姉との間に埋められない隙間が出来ることになる。
「…じゃあ、お願いします」
「うん。それじゃあ、数学から始めようか」
 机の上に広がった数学の教材に目ざとく目をとめた姉は、幹人が数学を苦手とすることを知っている上で行ってきたに違いない。
 そして教材を手にとって問題と幹人が作った解答を照らし合わせていく…。
「うーん……、これは積分の勉強よりも先に微分を勉強しないとマズイね……」
「や…やっぱり?」
「だって基礎が出来ていないもん…」
 姉が申し訳なさそうに言う。
 しかし、姉は悪くないのだ。
 悪いのは自分自身。今まで下積みを地道にやってこなかった、自分。
 そしてその自覚はあったのだが、今更基礎になんて戻れない時期だった。
「今からでも基礎を見直そう。ほら…、教科書を出して…」
 姉の言われるがままに、特別講習は始まった。
(うん…。でも、こういうの久しぶりかも)
 小学生くらいのときは、夏休みや冬休みの課題を姉によく教わりにいったものだ。
 しかし、中学生くらいになると露骨に姉との成績を両親や周囲から比較されるようになり、いつしか聞きに行くのすら億劫になっていた。
 大学受験が始まって、本当は姉に質問したいことはたくさんあったのだが、それは自分を馬鹿にした周囲に対して負けを認める気がして嫌だったのだ。
「……で、この部分がさ……になるでしょ? そうしたらこっちの増加量が……」
(姉さん……やっぱり分かりやすいな…)
 説明を分かりやすく噛み砕いてくれるのも昔からだった。
 まるで学校の先生か、それ以上に分かりやすい。
 幹人の目線に合った説明をしてくれるため、非常にすんなりと知識が入ってくるのだ。
「やった! 解けたじゃん! 幹人、凄いよ!」
「いや…だって、姉さんが教えてくれただろ? 解き方…」
「でも、実際に解いたのは幹人の力だよ。凄い凄い!」
 と、姉はまるで自分の事のように幹人が問題を解いたことを喜んでいた。
 だが、ふと悲しげな表情に一転した。
 やはりこの程度では更なる精進が必要ということか、と怒られることを幹人が身構えたとき、姉から発せられた言葉は予想を裏切るものだった。
「幹人……。人を、裏切ったことってある……?」
「え…? うーん……多分、無いと思う」
 幹人は友人を大切にするタイプだった。
 何よりも、友人だけではなく裏切りという行為そのものを嫌っている自分に裏切りなどやったことは無いはずだ。
 幹人はそう伝える。
「……そう…」
 伏せ目がちに、姉は呼吸を置いて続けた。
「幹人…。どんなに勉強が出来るようになってもね…。ううん、仮に勉強が出来なかったとしても…他人を傷つけるようなことだけはしないでね……」
 そう言っている姉は、泣いているようだった。
 言葉の抑揚が、いつもより震えている。
「姉さん……どうしたの…?」
「…何でもないの」
「………………彼氏のこと?」
 ビクリと、姉が身体を震わせる。
 以前、自宅に一度姉が恋人を連れてきたことがある。
 そのとき幹人もその人物をちらりと見たのだが、姉と同様完璧と言っても遜色ないほどの人物に見えた。
「上手く…いかないの……?」
「……ふられたのよ…。私」
「…………」
「ううん…。捨てられたのね、私。彼ね…こう言ったの。『お前は鬱陶しいだけだ。邪魔なんだよ』って……」
「そんな……」
「尽くしてきた…つもりだったのに……」
 別れを告げられた光景を思い出しているのだろう。
 姉はその大きな瞳からボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。
 それで、幹人はピンと来た。
 姉はそれを忘れたくて、最初に飲もうと言ってきたのだ。
(それを俺はあんなふうに断って……)
 反省しなくてはいけない。
 どんなに忙しくたって、姉は言われたことはしっかりとやりくりしていくタイプだ。
 そこが、姉との間を広げていく微かな姉弟の違い。
 全能か、無能かの違い。
「姉さん……」
 そっと、姉を抱きしめた。
 本当なら、もっと良い方法で慰めることが出来るのかもしれない。
 けれど。
 まだまだ未熟で、自分を無能だと思っている幹人にはこれしか思いつかなかった。
「幹人……」
「姉さん……。俺が言うのもなんだけど…忘れようぜ、そんな嫌なこと。気持ちを切り替えて。そんな男の子とは早く忘れたほうがいい……」
「………そう、だよね…。でも………」
「俺なんてさ、嫌なことばっかりだぜ。受験なのに基礎は出来ない、模試の結果は悪い、おまけに彼女いない暦実年齢と相互リンク中。どうだ、最悪だろう?」
 一番最後の奴は余分だったな、と思いつつ幹人は続けた。
「最初はさ、そういう悪いこと全部、姉さんだったらもっとよくできるのに、って思っていた。でも、やめた」
「……どうして…?」
「姉さんみたいに、何でもかんでも持っている人間と、俺は違うんだ。ひがみとかじゃなくて、純粋に持っているものが姉弟でも違うんだよ。だから……何も持っていない俺が比較してもしょうがないか、って……そう思ったら、何か悔しくなくなった」
「…………」
 姉は黙って聞いている。
「臭いこというけどさ、明日に前向いて歩くには、多分…。切り替えてポジティブに生きなきゃいけないと思うよ」
「………そうだよね…。うん、ありがとう。幹人……」
 そう言って、幹人の背にぎゅっと腕を回してくる。
 落ち着いたのだから離れるだろうと思っていた幹人には意外だったが、それでも女を抱きしめる機会などこういうときじゃないと自分には無い。
 不謹慎だが、柔らかい姉の身体を少しくらい堪能させてもらおうと思った。
「えへへ……、幹人。大きくなったね…」
「そりゃ…もうすぐ高校生も終わりだしな……」
 例え大学に合格せずとも。
 そう思うと内心でハラハラと涙を流した。
「昔は…私のことお姉ちゃんって呼んでいたんだよね。覚えている……?」
「あ…ああ……」
 確かに、小学校を卒業するまでは姉をお姉ちゃんと呼んでいた。
 だが中学生になると、そう呼ぶのはどこか気恥ずかしくて、姉さんと呼ぶようにしたのだ。
「あの頃の幹人は可愛いだけだったのに…。こんなに逞しくなって…お姉ちゃん、嬉しいぞ」
「そ…そうなの?」
「うん……。ねぇ、幹人…。私は女らしくなったかな…?」
「そりゃそうでしょ。姉さん、美人になったよ…」
「良かった……」
 姉は、自分に女らしさが欠如しているからふられたと思ったのだろうか。
 だとしたらとんだ思い違いだ。
 きっと、世の男に聞けば理想像として描いている女性が姉と一致するに違いない。
 かくいう幹人も、姉は理想の女性であった。
 姉弟でなければ、雲の上のそのまた上、といった立場に姉はいるはずなのだが。
「幹人……」
「なに?」
「幹人は……彼女いないの?」
「ぐ……」
 やはり先ほどの発言は不必要だったようだ。
「いないの?」
「…ああ。生まれてこの方、彼女なんて出来た試しがない」
「そうなの? それじゃあ、今はお互い独り身だね」
 嫌味や皮肉のつもりは無いのだろう。
 多分、姉は自虐しているのだ。
 それが、幹人には気に入らなかった。
 前向きに生きたいと願った姉が、速攻で後ろ向きな生き方になっている。
「でも…彼女いないって寂しくない?」
「寂しいけどさ…。受験中だし、作っている暇も、相手もいないよ」
 それは事実だった。
 だが、こればかりはどうしようもないことだった。
 受験で忙しいのも事実。
 そして出会いが無いのもまた事実。
 大学に入ってから、期待するしかない。この半年はそう思っていた。
「姉さんは…?」
「ん…。寂しい……。でも、幹人がいるから平気……」
 何気に嬉しいことを言ってくれる。
 幹人はそういったセリフに弱かった。
 実際に言われたことはこれが初めてだが、ギャルゲーでそんなセリフを言われて以来、その虜になってしまった。
 途端、目の前の姉が女に見えた。
 押し付けられる豊かな乳房。
 長く、綺麗な黒髪。
 それが今、自分の腕の中にいる。
『抱いてしまえ』
 本能がそう叫んだ。
(駄目だ……。近親相姦になっちまう…)
 理性が反論する。
『抱いてしまえ』
 本能が猛り狂ったように叫んだ。
(抱く…? 俺が姉さんを……)
『そうだ、抱いてしまえ。愛する女が目の前にいるのだ、抱いてしまえ!』
(…そっか。じゃあ……)
「…? 幹人、どうしたの?」
 ぼうっとしている幹人を心配したのか、姉が問いかけてくる。
「姉さぁん!」
「え…ちょ! 幹人!?」
 突然ベッドに押し倒されて、姉は困惑の声を上げた。
「な…何をするの! やめ……ん、んん……」
 抵抗する姉を押さえつけて、唇を塞ぐ。
 そうすると姉は途端に体中から力が抜けていき、幹人は容赦なく唇を何度も重ねていった。
「ん…ん、ぷはぁっ! み……幹人…止めて……」
 口ではそういうが、瞳はとろんとして微かに潤み、身体はもっとしてほしいと願っているようにも見えた。
(キス…したんだよな、姉さんと…。俺のファーストキスが姉さんか……、ははは…)
 だが、キスだけでは足りない。
 もっと姉が欲しい。
 もっと愛したい。
 そんな欲望が募っていく。
(なら…すればいい)
 そう思うと途端に近親相姦に対する禁忌の思いや、今まで全能と無能と無意識下で姉との境界を作っていたものが全て吹き飛んだ。
 ためらいも無く、幹人は姉の豊かな両胸を掴む。
「あ……、駄目よ…幹人……駄目…」
 うわ言のように姉は「駄目」と繰り返す。
 しかし抵抗らしい抵抗をしない。
 触らせておけば、いずれ飽きると思っているのだろうか。
(やわら…かい)
 幹人はその柔らかさに一瞬で虜になった。
 触れれば触れただけの快楽を返してくれる。そんな初めて触れる乳房の感触に夢中だったのだ。
「ね…ねぇ、幹人。もう止めて……」
 姉の懇願する声を振り切って、幹人は姉の服を脱がせ、直接胸を揉んでいった。
「あ……ああ、幹人……。駄目……取り返しが…つかなくなる……」
 途切れ途切れに言葉を発する。
「姉さん……俺…。姉さんが好きだ」
「ば…! 何を言っているの?」
 突然の幹人の言葉に、姉は困惑の表情を隠せない。
「俺は…子供のときから何でも出来る姉さんがずっと羨ましかった。俺には出来ないことを、そつなくこなせる姉さんがずっと憧れだったんだ……」
「そんなの……」
「姉さん…。俺の彼女になってくれよ。絶対幸せにするから……」
「………駄目よ」
 ポツリと姉が呟く。
「私達…。血のつながった姉弟よ……。恋人になんてなれない……」
「で、でも!」
「幹人……。世の中には私以上にもっといい女の人がいる。その人なら…きっと幹人を幸せに出来るわ……」
「俺は…姉さんじゃないと幸せになれないよ……。こんなに好きなんだぜ?」
「だって……だって…」
 途端、姉がポロポロと涙を流し始めた。
「ちょ…、どうしたのさ…?」
「だって…だって……。私は男の人を幸せに出来ないもん…」
「どうして…?」
「……前の彼氏に言われたの…。処女は面倒だから嫌いだって」
 姉が悔しそうに呟いた。
 ってちょっと待て。
「姉さん……処女なの?」
「わ…悪い? 貞操観念しっかりと持ってちゃ?」
「そっか…」
 何だか毒気を抜かれてしまった。
 自分の勝手な都合だけで姉を押し倒してしまったが、姉は自分が一番大切と認めた相手にしか抱かれないと決めているのだ。
 無理やり抱いて、それが処女を散らす結果になってしまうのなら、幹人も抵抗があった。
「ごめん……。無理やりこんなことして…」
「う…ううん。平気…。最後まではしなかったから……」
「あ…あのさ、姉さん…」
「なに?」
「このこと…父さん達には……」
 そうだ。
 言われてしまった日には強姦未遂になる。それも近親相姦でだ。
 間違いなく自分は家にいられなくなる。
 高校生の自分に、家を出てから先の生計を立てていくだけの自信はなかった。
「大丈夫。黙っていてあげる…」
 そう言う姉の顔には、怒りとかそんなものは一切存在しなかった。
 多分、許してくれているのだろう。
「幹人くらいの年になったらおっぱいに興味くらい出るよね? 今後、触らないって約束してくれたら許してあげる」
「う…うん」
 この先姉の豊かな乳房に触れられなくなるのは惜しかったが、そんなことを言っている場合ではない。
「でも…幹人が私の身体に興味を持ってくれたことは嬉しかったよ。てっきり、男の人って外見で処女とか分かるのかなって不安だったから」
「いや、それはいくらなんでも無理」
 実際にそういった場面になれば気づけるのだろうけれど、普通は街中で歩いている女を処女かそうでないかなんて見分けられない。
「でも…姉さんの身体ってすごく魅力的だと思うよ」
「そう…かな?」
「そう。実際に見て触った俺が言うんだから間違いない」
「も……もう…」
 姉は途端に顔を真っ赤にしてしまう。
 そんな姉が可愛いと感じたことに、今は罪さえ感じる。
 自分は姉に振られたのだ。
 考えてみればあたりまえのことかもしれないが。
「……ねぇ、幹人。覚えている…?」
「なにを?」
「小さい頃…私をお嫁さんにするって言っていたこと……」
「あ! あれは…!」
「嬉しかったよ……。生まれて初めてされた、私へのプロポーズ……」
 そのときの光景を思い出しているのだろう。
 姉は静かに眼を閉じて続けた。
「あの頃の幹人に……私は憧れたんだよ…」
「え…?」
 すっと、静かに目を開いた。
「正直…。私、幹人のお嫁さんになってもいいかなって、そう思ったの…」
「姉さん……」
「でもね…。私も成長していくうちに気づいた。幹人とは結婚できないんだって。もし子供とか出来ても、奇形児とか、身体の弱い子供になる可能性が凄く高いから…。だから結婚できないって……」
 姉は再度、幹人の胸に顔をうずめた。
「私はこんなにも……幹人が好きなのに……」
 最後にそう呟いて、姉は部屋から出て行った。
(姉さん……)
 悲しそうな表情をしている姉を、幹人は黙って送り出すしか出来なかった。



あとがき
 何だか書き進めていくうちに1話だけで終了させるのが惜しくなってきてしまい、続くようにしました。

 そもそも全能なお姉さんと無能であると自虐する弟の話を書きたかったんですね。で、セックスでは弟が勝るというような展開。
 でもそれはありがちなので路線変更。
 次回はきっと幹人もお姉さんを抱きます。
 それに至るドラマ、多分私がこの作品につぎ込みたいのはそこなのだと、只今痛感中でございます。
(2005/04/06)
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